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 ここにいたって、浅見は呆れてしまった。いったい、天海=光秀説というのは、そもそもどこから発生してきた話なのだろう?  ひとまず日光から戻って、『旅と歴史』の春日一行に訊くと、「おれは交通公社のガイドブックで読んだのよ。文句があるなら、そっちへ言ってよ」と、はなはだ無責任な返事だった。  べつに文句を言うつもりはないけれど、浅見は交通公社に電話で問い合わせた。 「天海=光秀説ですか? はい、ウチのポケットブックに、たしかにそういう記述がありますね。しかし誰がどういう取材で書いたのか、分からないのですよ。毎年、改訂していますから、原文を書いたのが誰か、古いことですので……」  というわけで、天海=光秀説の発生源を探る作業は、たちまち行き詰まった。  浅見はふと思いついて、天海が開いた上野の寛永寺に直接、訊いてみることにした。そして、そこではじめて、手掛かりらしきものにぶつかった。  といっても、寛永寺当局がそのことを知っていたというわけではなく、浦川という研究者を紹介してくれたのだ。  浦川正明は高賢院という寺の住職で、天海の研究家として第一人者なのだそうだ。さすがに天海の周辺の史実に詳しくて、話す内容には説得力があった。  浦川の話によると、国書刊行会が復刻した『慈眼大師全集』という大正年間の資料集に、天海僧正のことはすべて紹介されているという。 「いいものも、悪いものも、俗説も、つまりたとえば天海=光秀説というものもですよ」  浦川は微笑を浮かべながら言い、さらに、 「この書物には、天海=光秀説などというものは、まったくの作り話であると書かれています。私が思うに、この俗説は天海側からではなく、明智光秀の信奉者側から出た発想で、ごく次元の低い、単なる英雄不死伝説の一つでしかありませんね」  こう断言して、それ以外にも、天海についてのさまざまな疑問に答えてくれた。  ところが、これで完璧に「天海=光秀説」は消えたと思ったのも束の間。浦川の言っていた『慈眼大師全集』を調べてみると、その中に「天海=光秀説」に関することは何も書かれてなかったのである。  浅見はその件で、再度浦川に電話で問い合わせた。 「そうでしたか、それでは私の記憶ちがいだったのでしょう。しかし、たしかにどこかで見たことは憶えています。江戸時代の版本か何かだったのかもしれません」  またしても謎は継続することになったわけである。  浅見はいよいよ万策尽きたあげく、その昔、天海が座主でもあった日光山を直撃して、天海=光秀説の信憑性を質すことにした。
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