收藏

ビト ン長 財布 メンズ編集

 一方、終脳には動物神経系(脳脊髄神経)の中枢があって、ここから末梢にむかって神経線維が伸びていき、骨格筋(随意筋)に分布し、自分の思いどおりに手足を動かす。  つまり覚《かく》醒《せい》しているときには、終脳支配で随意筋を動かして行動するが、意識不明になって眠っているときは、脳幹支配で不随意的に血液循環、呼吸、消化器系などをオートマチックに動かし、生活を維持しているのである。  植物状態というのは、終脳にダメージを受け、意識不明で昏《こん》睡《すい》状態にあるが、脳幹は無傷なので呼吸、心拍動には支障なく、栄養を与えれば消化吸収して、生き続けることができる。  ちょうど植木鉢の植物のような状態をいう。 『脳死』は、脳幹にダメージを受けた場合をいう。心拍動、呼吸、消化吸収など生命維持に必要な器官に対して脳から活動せよとの指令が出ないので、放置すれば間もなく死に至る。そのため脳の指令に代わって人工心肺器を取りつけ、機械でそれを動かし延命をしている状態が『脳死』なのである。 『脳死』になってしまうと、最新医療の限りを尽くして治療を行ったとしても、もはや生の方向に戻ることはない。なぜならば、神経細胞は他の細胞と異なり再生能力がないので、一度ダメージを受けると蘇《よみがえ》ることはできないのである。  人工心肺器を装着して呼吸させ、血液を循環させると、脳を除くすべてのからだは生きつづけるが、機能を停止した脳は血液の循環を受け入れないので、脳の組織は壊《え》死《し》に陥り腐りはじめる。だから脳死の状態を「生きたからだに死んだ脳」と表現することもある。  医学的には死んでいる人を機械で動かしているのが『脳死』であり、延命術なのだ、とはいえ、二〜三週間後には機械にも反応しなくなり、呼吸が停止し、やがて心臓も止まって死が訪れる。  これまでは脳、心、肺の機能が永久に停止した時をもって死亡としているので、生と死の境界は瞬間としてとらえられている。ところが延命術が発達し脳死という状態が発生すると、『脳死』が死のはじまりとなり、二〜三週間後に呼吸停止が生じ、やがて心臓停止が起こったときが死の終わりということになる。  瞬間としてとらえていた死に、二〜三週間という幅が生じたのである。さらに脳死の間は自分の力で心、肺が動いているのではない。セットされた人工心肺器によって動かされ、生かされているので、スイッチを切ればその時点で患者は死ぬことになる。  医学的に『脳死』は死なのである。だからその間に臓器移植が可能であろうと、専門医は考える。新しい臓器ほど移植後の定着率が高いことがわかっているから、専門医たちは、脳死と臓器移植について国民の理解と同意を得ようと努力しているのである。  しかし、人の死は医学的判断のみでよいのかというと、必ずしもそうとは限らない。  あるときテレビで、母猿が死んで干からびたわが子を抱きかかえて生活しているのをみた。“やらせ”ではないかと、動物の専門家に尋ねたところ、母猿は死産した子はそのまま置き去りにするが、生まれてから数日後に死んだ子は、生きている子供と同じように手放さないで、共に生活しているという。  驚きと感動で、胸がつまった。  猿でさえそうなのだ、ましてや人においてをやである。  生きる者にとって、死を科学的にのみとらえることは、必ずしも十分な対応ではないことを思い知らされた。  脳死と臓器移植を容認しているアメリカの人々は、電車から降りる際、前に立っている人に、降りますからどうぞおかけくださいと席を譲るように、脳死と臓器移植をとらえているという。 「私は死ぬのです。どうぞ必要ならば、腎臓でも心臓でもお使いください」と。病める人の気持ちを十分理解しているからであろう。
表示ラベル: