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null「日本を発つときに西園寺に会って話をしたが、西園寺は俺に向かって、どんなことがあっても政府に連盟から脱退するようなことはさせない、と約束した。それだのにこの最後の訓令はなんだ。……だから俺は公家政治は大嫌いなんだ」〈佐藤尚武『回顧八十年』(38年、時事通信社)〉  西園寺がそんな約束をしたのかどうか、十月に松岡が出発の挨拶のため京都に出向いた時には西園寺は風邪で面会できず、松岡は中川小十郎(立命館総長、貴族院議員)秘書に言づけて、「必ず纏めて帰るようにしたいと思います」と大見得を切って、帰っている。それに、往路、ベルリンで七田代理大使が小幡酉吉大使の意見を伝えたときには、松岡はすでに脱退論に傾いていた。  小幡大使の意見——英米も困り抜いて、何とかして日本の面子を立てて、脱退を食い止める方法はないかと躍起になっているのだから、日本側から脱退するなどといわずに、例えば、五カ年位の間、満州の現状維持案を持ち出して見たらどうか——を聞いた松岡は、七田に言った。 「君、小幡さんの意見は真人間のいうことだよ。君等外国にいる者には判るまいが、今や日本人はマッド(狂人)になっている。マッドになった者にはマッドの意見より通じないものだ」〈『小幡酉吉』(32年、伝記刊行会)380〉  七田は、ああやっぱり松岡全権は「もう軍人のとりこになっている」と痛感したというが、�パラドックスに陥りやすい人�と西園寺が評した松岡らしい見解である。  そんな松岡に、原田は真っ向から反撃する。 「先般来新聞の論調を不必要に、というよりも有害に硬化させて、ひいては国家の品位を疵つけさせたのは、誰あろう、ジュネーブにいる松岡全権その人だったのである。松岡全権が建川中将あたりと相談して、日本の在外記者を買収し、喧しく報道を送らせていた結果であって……自分達が余計なことをやりすぎていたことをみずから責めた方がいい」  この連盟脱退の経緯を、昭和十六年の日米開戦の際と比べると、興味深い。よく知られているように、昭和十六年十一月二十六日に、アメリカは日米交渉最終案として�ハル・ノート�を提議した。 [#この行1字下げ] 日本国政府は支那および印度支那より一切の陸、海、空軍兵力および警察力を撤収すべし……合衆国政府および日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国政府以外の支那に於ける如何なる政府若くは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし……  このハル・ノートの「支那および印度支那」を満州に置き換えると、連盟勧告案と同じようになる。そして国内世論の面でも、連盟脱退直前の七年十二月十九日には全国一三二紙の新聞が共同宣言を一面に掲げて、「いやしくも満州国の厳然たる存在を危うするが如き解決案は、たとい如何なる事情、如何なる背景に於て提起さるゝを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを日本言論機関の名に於てここに明確に(声明する)」と強硬論を展開したことも、日米開戦直前の新聞の狂躁ぶりを想起させる。また、「勧告の内容があまりに日本に対して不利である」と知って朝野をあげて即時脱退を決意し、片やハル・ノートを「最後通牒に等しいもの」と受け取って開戦に一気になだれ込む——昭和八年も十六年も、日本は外圧に遭遇して同じ反応を示した。それは、西園寺が「種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね」〈木戸497〉と慨嘆する、その日本国民の国際感覚のレベルを表わすものであるかも知れない。少くとも昭和八年も十六年も、日本の主張や行動は英米を中心とする国際社会から容認されておらず、連盟発足時、つまり第一次大戦終了時の状況から一歩も踏み出すなと強要されていたのだった。  ところで——  天皇は、連盟脱退について、終始反対の意向だった。 「元来日本の国是は、維新のはじめにおいて、ひろく世界と交わり、大いに知識を開発するということに、詔勅にても一定しおる」と西園寺がいうように、国際友好関係の維持と、憲法の遵守を天皇は政治上の理念としている。  政府は、「国際連盟を脱退するに就ては、通告文を交付すると共に、詔書渙発を奏請する」ことに決め、三月八日に内田外相はその旨を天皇に奏上した。天皇は、内田が退下すると、鈴木侍従長を呼んで、詔書の内容に指示を与えた。  一、脱退の不得止に至りしことは誠に遺憾なること