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2015-02-04 10:47    プラダ長財布
 鶴吉はこたえずに庭に目をやった。すでに明の姿はどこにも見えない。鶴吉は「じじい」といわれたことを妻にはいいたくなかった。それは、だれにもいいようのない深い淋しさであった。七十二歳の自分に、二十歳のむすこひとりしかいないということを、他の人間はどう考えているだろうか。 「いやあ、大きいお孫さんですね」  いくど鶴吉は、そんなあいさつを受けてきたかわからない。息子だとこたえる。事情をよく知らぬ人々は、 「ああ、末のお子さんですか、これは失礼」  と頭をかいた。ひとり息子だと知ると、人々は必ずけげんな顔をし、唇の端に、ちょっといやしい笑いをうかべて、二十も年のちがう傍らの友江と鶴吉を、あらためて見くらべるのだった。そのたびに受けてきたものは、不快とも、悲しみとも、わびしさともいいようのない気持ちだった。しかし、その心のなかは、妻の友江にもわかっているかどうか。近ごろ明がときどき「じじい」と呼ぶ。そのとき友江は、細い柔和な目をいっそう細めて、おかしそうに笑うだけだ。友江と会った五十にいたるまでの年の、鶴吉の苦しみは、おそらく友江にはわかるまい。鶴吉もまた、たどって来た人生を、ともに語ろうともしなかった。  友江と結婚したのは昭和二十三年である。中国大陸から復員して二年目だった。そのとき友江は、幼いひとり娘を育てながら、札幌の街で小さな飲食店を経営していた。ときおり友江の店の片すみに、ぼんやりと飲んでいた鶴吉に、友江は「おじさん、おじさん」と気軽く声をかける三十の女だった。  友江は生来《せいらい》柔和な、気のいい女だった。もののいい方も、表情も、からだつきも、すべてがまろやかだった。そんな友江を見ているだけで、孤独な鶴吉は慰められていたのだった。自分よりも二十も若い友江に、何の野心もなかった。いつも無口に、わずか一本の銚子《ちようし》をあけてあっさりと引きあげていく鶴吉に、友江はいつしか信頼を抱くようになっていた。友江はしだいに、何かことがあると、鶴吉をたのみにするようになった。  ひとり娘の文子がからだが弱くて、よく熱を出した。客がたてこんで忙しい夜など、ろくに看病ができない。すると友江は、 「おじさん、ちょっと文子のそばで、飲んでやってくださる?」  などとたのむこともあった。鶴吉は、気軽に銚子と盃《さかずき》を持ったまま、のっそりと奥の間に通った。口数は少ないが、鶴吉はこどもが好きだった。まだ五つだった文子は、鶴吉によくなついた。  その奥の間で、黒枠の額ぶちにはいった、軍服姿の友江の夫の写真を見た。友江の夫は、敗戦から一年まえの、昭和十九年七月、サイパン島で戦死したのであった。  親子ふたりにしては、ひろい家であり、ひろい土地であった。  友江の夫はある銀行の行員であった。彼の父母兄弟は、新潟にいた。旧家の両親は、転勤先の札幌といえども、借家に住むことをよしとしなかった。この家はその両親から買ってもらった家であった。  友江は、飲み屋などできそうもない性格に思えたが、その店はよくはやった。敗戦後のけわしい世相のなかで、疲れ尖《とが》っている人々の神経を、友江の人がらは、包むように慰めたからであろう。  飲み屋をしているうちに、友江は男性というものを、いろいろな面から知ることができるようになった。そしてそのなかで、もっともうらぶれているように見え、年の差もある鶴吉と結婚したのであった。  結婚した鶴吉は、不動産業に手を出した。店からあがる金は、市の周辺の土地を、少しずつ買っていくために使った。友江は、そのことになんの口出しもしなかった。  一年後に明が生まれた。店はいつのまにか、ひとりの板前と、ふたりの女の働く店になっていた。そのときに、店を売ってくれというものが出てきた。鶴吉は、すぐ売ろうとはせず、しばらく待てと、友江にいった。はたして、鶴吉が思ったとおり、かなりの高額で、家と土地を買いたいという話が出た。鶴吉は友江に売ることをすすめ、その金で、買えるだけの土地を買い、親子四人借家住いをすることになった。それが、いまの小島不動産を築く土台となったのだった。  鶴吉は、浴室に行ってシャワーを浴びた。しかし、明にかけられた水は、シャワーの水では流し去ることはできないような気がした。