プラダ1m1132リボン
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null「地所を測るのだ」と、院長は言った。「紐をずうっとつなげて、一間おきに紙縒をしっかりと結んでくれたまえ。紐はできるだけ長く、そう、一町もあれば足りるかな」  なんのことやらよくわからぬまま、康三郎が紐の用意をしている間、基一郎は自ら台所へ行って弁当を命じた。海苔をまいた握り飯である。 「そう、鰹節を入れて、半分は梅干を入れて……それから香こに佃煮、どんな佃煮があったかねえ?」  糖尿病のため食物に注意しなければならなくなって以来、微量だった基一郎の食欲は増加し、その嗜好も変化し、あまり摂生とてせず、単なる握り飯の弁当にもあれこれと口をだすのであった。  近頃にしては珍しく洋服に着がえた基一郎は、弁当の風呂敷包み、大量の紐、画用紙、定規、鉛筆などを入れたカバンを康三郎に持たせ、家を出た。渋谷まで市電に乗り、——楡病院の二台の自動車は一台は焼失し一台は手放してしまっていた——渋谷から玉川電車に乗りかえ、三軒茶屋で降りた。そこから松原まで歩くのである。  途中、基一郎ははじめて何も知らぬ康三郎に打明けた。これから世田谷松原の土地を調べにゆくこと、そこに新病院を建設するつもりであることを。  院長の口調は、康三郎が上京した当時と同じようになめらかで、雄弁というわけではないが次から次へと移ってゆき、人を心服させる、あるいは人をたぶらかす力をすっかり回復しているようであった。 「土地のことはもう地主に諒解を得てある。病院の設計ももうできているよ。請負師も決っている。どうだ、ぼくのやることは君、実に電光石火だろう? 青山の土地は裁判には勝ったが、病院を建てることはまだ警視庁の許可が降りていない。そんなものを待っていては、いつのことになるかわかったものではない。そんなものを便々と待っている男じゃないよ、ぼくは」  それからまたこうも言った。 「院代たちは青山の土地に執着しているが、それは時代を見ないということだ。青山なんぞは君、いずれは家がびっしり建つよ。東京はどんどん発展する。世田谷なんぞもいずれは東京市に編入されるようになるにちがいない。大病院は郊外に建てる、そして青山は外来診察を主にして、郊外の病院に患者さんを送る、そういうふうにしなけりゃ駄目だよ、君。ぼくは何時だってひと時代もふた時代も先を見ているからねえ」  基一郎の弁舌を聞いていると、康三郎の胸には、やはりこの院長先生は人物だ、人にすぐれた人物だ、人は老いぼれたなどと言うけれどこの院長のめぐらす計画には間違いがない、という考えがどうしても浮んでくるのであった。とはいえ、康三郎には一抹の疑惑がないわけでもなかった。郊外に新病院を建てるのはよいとして、その資金はどこからくるのか? 現在楡病院の多からぬ従業員に対する給料も滞りがちで、あまつさえ真偽は定かではないが、古くからいる奥づとめの女中、下田の婆やなどの奉公人の貯金、その零細な金額までも院長が借りてしまったという噂を彼は耳にしていた。  そういう康三郎の胸のうちを見すかすように、事もなげに基一郎は言った。 「君、ぼくには金は一文もないよ。それでもちゃんと病院はできる。君も覚えておきたまえ。頭だよ、そして信用だよ。松原に土地を借りて病院を建てる。その病院を抵当にして金を借りて、土地と建築の費用を払う。まあ見ていたまえ、今度の病院はバラックだが、いずれはあの青山の病院のようにしてみせる。あの二倍の規模の宮殿のような病院にしてみせる。それまではぼくは死ねないよ。病院を作って、それからもう一度代議士に出馬する。君、ぼくの顔いろを見てみたまえ、つやつやしているだろう? 若い者そこのけだろう?ぼくがいったんこうと思ったからには、いつだって必ずその通りにやりとげるからねえ」  康三郎は歩きながら院長の横顔を盗み見た。その皺のきた顔はあまりつやつやしてもいなかったけれど、白いもののまじった長い眉毛の下の両眼には、たしかに人を説得するだけのいきいきとした輝き、なにか圧倒される活力があった。  三軒茶屋から先はまったくの田舎道である。日はうらうらと汗ばむほどに照り、道は白く乾いていた。そういう道を二人は長いこと歩いた。基一郎は上機嫌で、ひっきりなしにしゃべりつづけた。しばらくまえ世間を騒がした汚職事件、復興局に関する「あがちヶ原事件」についても語った。 「君、渡辺といえば指折りの大地主だが、内実は苦しいんだねえ。だが政治にはいろんな裏面があるよ。君なんかにはまだわからないだろうが、政治というのはおもしろいよ。医者は個人が相手だが、これは一国が相手だからねえ」  梅ヶ丘という土地に着いた。辺りは一面の麦畠である。その中に一軒だけある見るからに豪農らしい家が地主であった。その家に入り、もう話はついているらしくひとしきり世間話をして、土地の図面を借りた。まだ昼に早かったが、茶を入れてもらって弁当も食べた。康三郎が見ていると、基一郎はもともとあまり固形物を食べない男であったのに、旺盛な食欲をみせて握り飯をほおばっている。  先生、どうも威勢がいいな、と康三郎はそんなことにも感服しながら思った。