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null  犬 と 敗 戦  ことしは、八月十五日、終戦記念日にも、とくに目立った行事はないようだ。これは、あたりまえである。人が死んでも、初七日とか、四十九日とか、一周忌とか、七回忌とかで、だんだん周期が長くなってくる。終戦の日を振りかえるのだって、これからは五十周年とか、七十五周年とか、次第に間遠になって行くに違いない。  しかし、私個人の話は別である。あれから三十五年、よくいままで生きてこられたという感慨が先ずある。私の入営した歩兵第一連隊の同年兵は、ほとんどがレイテ島で全滅したはずであるし、中学校の同級生も戦争がすんでみると三分の一は、必ずしも戦死ではないけれども、病気で死んだり、戦犯になったりして、どこかへいなくなってしまった。私自身、軍隊の病院から帰されたときは、昔の言葉でいえば�廃兵�になっていた。結核性カリエスで、ひところは立って歩くことも出来なかったのである。あの頃は食糧難ではあるし、家は焼けていて売り食いするにも売るものもないし、まったくどうやってこれから生きて行こうかという毎日であった。  秋になって、鵠沼《くげぬま》海岸の親戚の空き別荘を借りて住むことになった。そのときの、ほっとした心持は忘れ難い。鵠沼は、空襲をうけていなかったので、家並みも道路も松並木も、昔のものがそのまま残っていた。焼け跡の赤茶けた土地ばかり眺めてきた眼に、それは何と美しく落ち着いたものに見えたことだろう。戦乱の廃墟から忽然《こつぜん》と日常生活がよみがえったようなあの町のたたずまいは、これが平和というものかと思った。そして、生けるしるしありという気がした。  ある朝、新聞をとりに門の外へ出てみると、桃色のモンペをはいた娘さんが、小径の四ツ角の垣根のそばにしゃがんでいた。一瞬、私は眼をうたぐり、夢を見ているような心特になった。何と彼女は尻をこちらに向けて用をたしていたのだ。当時、被災地では婦人でも野天で用をたすことが珍しくはなかった。しかし、この平穏な町で、それはまったく意外な光景だったのである。それにしても森閑とした朝、松の梢ごしに降りそそぐ秋の日を浴びて、娘さんの尻が白く輝いているのは、じつにのどかな眺めだった。そして私は、これもまた生けるしるしありか、と思った。  その頃、私は一匹の犬を飼いはじめた。このあたりは敵の上陸作戦の地点になる惧《おそ》れがあるといわれていたせいで、別荘に来ていた人たちの大半は何処かに疎開して、まだ帰ってきていなかった。この犬も、おおかた飼い主が疎開するときに棄てられて行ったものでもあろうか。まだ生後、半歳ぐらいの幼犬で、スコッチの雑種にシバ犬か何かも混ったような不思議な恰好《かつこう》の犬だった。しかし、東京の焼け跡ではノラ犬の姿さえ見掛けることはほとんどなく、私は懐しいものに出会った気がして、自分の食い残したものを少しばかりくれてやった。すると、次からその犬は、私が飯を食っていると必ず何処かから姿をあらわすようになり、代用食のふかし芋の切れ端など放ってやると、よろこんで食った。 「ごらんよ、お母さん、犬がイモを食ってるよ」  そういっても、生きものの嫌いな母は興味を示さなかった。さつま芋といえども、当時は貴重な食糧で、百姓家で三拝九拝しなければ頒《わ》けてくれなかったから、それを息子が物好きにノラ犬などに食わせたりするのは、母としては不愉快だったのだろう。実際、私が犬に餌をやったりするのは、多少とも気取った心持がないことはなかった。勿論、食糧が大切なことはわかりきった話だが、右を見ても左を見ても、食い物のことばかりが余りにも切実な関心を呼んでいるのをみると、私は何か食うことを考えるだけで憂鬱になり、物を食うこと自体に罪悪感のようなものを覚えたりした。新聞などで、「ことしの冬は数百万の餓死者が出るものと見込まれる」といった記事を見ると、かえって自分の食うものを削ってでも、この犬は絶対に飼ってやるぞ、とへんに力んだ気持になった。  いつの間にか、「チビ」というのが、この犬の名前になり、私は郵便を出しに行ったり散歩に出たりするとき、人の見ている前で、わざと声高に、 「おい、チビこい!」  などと叫んだりして、どうだ、おれは犬を飼っているんだぞ、という態度を誇示したりした。もっとも、人がこれをどう見たかは知らない。なにしろこの犬は、虚栄心で飼うにしては、あまりにも不恰好な姿をしていたのだから。しかし、他人がどう思おうと、この犬が私に完全になついてしまったことはたしかだった。べつに餌をやるときでなくとも、チビは私のそばをはなれず、私が家の中で母と話したりしていると、縁側の端にアゴを乗せて、自分も話の仲間に加わるようにジッと聞き耳を立てているのだ。そして私が庭へ出ると、跳びついてきてじゃれる。それは、ときどきウルさくなるぐらいだった。実際、脚にかじりつかれて、腰をへんな具合に動かされたりすると、いかにもワイセツなものが連想され、その生臭さに困惑せざるを得なかった。  やがて、厳しい冬がやってきた。わが家は一同、どうやら餓死することもなかったが、私の病状は悪化し、床に就いたまま身動きすることもかなわなくなった。自分が二六時中、一切の面倒を母に見てもらっている状態では、チビに餌をやることなど思いもよらず、私は忘れるともなく、この犬のことは忘れていた。そうでなくとも、新円切りかえとか、預金凍結とかで、わが家の経済はいよいよ逼迫《ひつぱく》してきて、文字通り食べるものに事欠く有様になった。戦時中の軍需工場が閉鎖されて、電力だけはいくらか余裕があるようなことが言われていたのに、それもたちまちダメになって、連日のように停電の夜がつづいた。私は暗闇の中で天井を向いて眼をあけたまま、自分が死ぬことだけを考えていた。しかし、そうやっているうちに春がきて、縁側にポカポカと日が射すようになると、私も病牀《びようしよう》から這《は》い出して日溜りでうずくまることぐらいは出来るようになった。  その日も私は、母の出掛けた留守に、一人で縁側で日向ぼっこをやっていた。「ごめんください」と玄関で声がしたが、立つのが面倒なので、庭から縁先きへまわって貰った。一と月ほど前に疎開先きから帰ってきた隣の別荘の奥さんが、回覧板をまわしにきてくれたのであった。奥さんは四十過ぎだというが、到底そんな年には見えない若々しさだった。回覧板を手渡されると、白い手に香水のにおいがした。 「すみません」私は、礼をいって、ふと彼女がつれている犬を見て驚いた。