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null しずまりかえった石の階段には、月の光がゆれていました。この階段をのぼりつめたところにひっそりとすわっている人のことを、このとき老人は、なぜかふしぎなほどなつかしく思いました。  コツコツと、くつ音をひびかせて、こっとう屋は階段をのぼりはじめました。二階から三階へ、三階から四階へ——。  それぞれの踊り場の窓から、月の光がさしこんで、のぼればのぼるほど、階段は、明るくなってゆくようでした。そして、みょうなことに、のぼればのぼるほど、こっとう屋の足は、かろやかになってゆくのでした。これまで彼は、自分の家の二階へのぼるだけで、荒い息をしていましたのに、これはいったい、どういうことなのでしょうか。いつのまにか、彼の足は、少年のように強くなっていて、階段の百段や二百段、いっきにかけのぼっても、まだつかれないように思われました。足ばかりではありません。いつのまにか、目は生き生きと輝き、体ぜんたいに、ふしぎな若さが、みなぎりあふれていました。彼の髪は、ふっさりと黒く、ほおは、ばら色にもえていました。そのうえ、ひとりでに、口笛までとびだしてくるのです。  今、月の光をあびて階段をのぼってゆくのは、あのこっとう屋の老人ではなくて、ひとりの元気な若者でした。それは、老人が、ちょっきり三十年若がえったすがたなのでした。いいえ、若かったころの、あのがんこでいじわるな彼ではなく、あたたかい目をしたやさしい青年でした。  若いこっとう屋の胸は今、後悔の思いでいっぱいなのでした。 「首かざりのひとつぐらい、あんたにあげてもよかったんだ。あれがいちばんよくにあうのは、あんたなんだから……」  若者は、階段をのぼりながら、そんなひとりごとをいっていました。  いっきにかけのぼった七階の、いちばんはしのドアを、彼はそっとノックしました。そしてしばらく待ちました。が、なんの返事もないので、とびらに耳をつけてみました。すると、かすかな歌声が聞こえてきました。若い女の声でした。こっとう屋は、いきなりドアをあけました。  すると、月の光をいっぱいにあびたへやの中に、青い服の娘がひとりすわっていました。長い髪を肩までたらし、銀色の腕輪をゆらめかしながら、娘は、ぬいものをしていました。ひざの上にひろげた、まっ白いテーブルかけのふちかがりが、もうほとんどおわるのでした。やっぱり……と、こっとう屋は思いました。けれども、なぜか少しもふしぎな気はしませんでした。ずっと前から、こんな出会いが予定されていたのだという気がしていました。 「いよいよ、ふちかがりがおわるね」 と、こっとう屋は、つぶやきました。テーブルかけができあがると、娘は、それをていねいにゆかにひろげて、ふたり分の食器をならべました。お皿を二枚と、スプーンをふたつ、ガラスのコップや、銀のティーポット、二枚のナフキン……。それから、娘は立ちあがって、そばのストーブに、大きななべをかけて、スープをつくりはじめたのです。  何もかも、あの机の上のできごととおなじでした。けれども今、自分とおなじ大きさになっているあの娘は?……あれはいったい、だれなんだろう……。  このとき、こっとう屋の胸は、ふいに、なつかしさでいっぱいになりました。青い服の娘が、むかしの奥さんに見えてきたからです。遠い外国の港の娘は、いつのまにか、まぎれもない、彼の奥さんと二重うつしになり、今、自分の方に、あのなつかしい笑顔《えがお》を向けたではありませんか。そして、自分に話しかけるではありませんか。早くこっちへいらっしゃいと——。  こっとう屋は、思わず大きな声で、奥さんの名まえをよびました。そして、へやへはいってゆきました。奥さんの整えたテーブルの、正式のお客になるために。  ストーブは、暖かくもえていました。  こっとう屋は、まるで小さな子どものようにいそいそとテーブルかけの前にすわり、ごちそうのできるのを待ちました。